3.11から3年の月日が経った。
自分はあの日、都区内某所のオフィス7階で普通に仕事していた。
その2日前にも地震があったので、また来たか?みたいな感じで思ってたら
30秒くらいしてただならぬ揺れに変わった。
急いでみんなで非常階段を駆け下りたが、立て揺れで吹っ飛んだらどうしようという恐怖でいっぱいだった。
みんなのこの行動には疑問視してた。外出たとたん何かが落ちてきたらどうするんだ?的な感じでね。
3分以上も続いた揺れは初体験。初めての「恐怖」だったね。
外出て近くの大きな公園にみんなで避難したが、震度5強にも関わらず周辺のビルの窓ガラスが一つも割れてないことに
さすがは日本の建築技術はすばらしいなと関心していた。
そのあと大きな余震が2度続いたあと、ビルへ戻り、崩壊?したデスクの周りを整理しながら
ワンセグでニュースを見てたときに、あのNHKので流れた名取市の津波に飲み込まれるLIVEに一同固まる。
定時前だったがボスから帰宅命令が出て、帰路のついたわけだが、JRは動いてないことがわかってたので
俺自身もランナーだし、練習がてらと主張して家まで30km6時間かけて歩いて帰った。
さすがに遠かったね・・・練習とは違う。途中コンビニで給水しながら、4時間くらい歩いて某駅のマックで夕食。
もうきつくなったので、そこからバスで数駅分移動して最後1時間歩いて自宅到着。
ここで、テレビをつけると気仙沼のあの光景が目に入る。
そして数日後、大学時代の後輩から連絡が入り、「僕無事です!」と。
は?その後輩、確かに結婚して仙台にいることは知っていたのだが
まさか「沿岸部」だったとは。
奥さんも自分知ってるんだけど、仙台沿岸部で飲食店営んでいた。
店舗兼自宅は津波の襲来を受けたが、前年にリフォームしていて家屋の流出は免れたの。
彼らは小学校に避難して無事。しばらく避難所生活を強いられたが、
数ヵ月後には自宅に戻ることはできた。
6月に仲間で彼らの家に行き、泥まみれの家の中を大掃除。
タンス磨いたり、瓦礫をどかしたり、ヘドロと塩のにおいが強烈でした。
港の方へ行ってみると、崩壊した堤防の巨大なコンクリートが100m以上先に流され、
公衆便所はひっくり返りと自然の驚異をまざまざと見せ付けられた。
その後、彼らのお店は年内に再開する奇跡を起こした。
自分も開店してちょっとしてから伺った。うまかったね!
しかし、街の復興計画の諸事情で1年も経たないうちに閉店してしまった。
聞いたら酷い話だよ。。。。食い違う自治体と国の計画に巻き込まれてしまったのだよ。
そんなわけで、自分は後輩の存在もあって震災を風化させずに済んでいる。
震災の話をすると地震が怖い怖い騒ぎ立てるヤツもいたが
被災地の様々な姿を見たらそんなこと言えんよね。
ちなみに、彼ら夫妻は東京五輪歓迎派だ。
同じスポーツやってるというのもあるが
震災直後は日本全体に「絆」の一体感があったのに
3年経ったらバラバラになっていた。
それをもう一度団結させるのがオリンピックだと。
後世に残さないといけないあの日の映像
ショッキングな場面も多くあるので注意